寺子屋「指圧と般若心経」
「指圧と般若心経?どんな関係が(あるの)?」
そのへんのくだりは長くなっちゃうから書かないけれど、このタイトルを目にして「きゅん♪」とくるか「ふーん…」と響かないか。
さて
「般若心経」とくるからには信仰の話かと思いきや
「みなさん、信じちゃいけません。」
「…と今言ったことも信じないでくださいね。」
ですと!
信じる=妄信=思考停止と等号で結ばれてしまうケースばかりではないだろうけれど、そういうことって「あるよねー」。
講義を聴いていて、「生きる」ことと「死」について、自分に都合のよいストーリーでもって逃避することの無意味さをあらためて感じた*1。
死ぬことへの恐怖とか、はたまた死んだら楽になるとか、生きている意味を感じられないとか、生きていく意味を求めての自分探しとか、「生と死」の周辺のありふれた問いの生ぬるさを。
実技では入力と出力を同時におこなうということの実際に(対極的な手技二つを中心に。その触れ幅の広さよ)触れることができた。
それを可能にするのは理屈ではなく手であり身体で、その鍛錬には質に至るに足る量が必要なこと。
…で後になって思ったのだけれど実技の際の説明は「鵜呑みにしちゃいけない」んじゃないかな。それは疑いすぎだろうか。実際に見せていただいた手技とそれを説明してくださった言葉や質問への回答は、言葉を受け取る人のレベルに合わせてかなりアレンジが効いているように思う。
「居つく」っていう言葉を使えるようなそんなたいした人間じゃないけれど、言葉に居ついてはいけないのかな。
マジになることをシビアに要求される講義(萩原先生の講座もだけれど)だなあ、っていうのが率直な感想。
*1:お正月のお笑い番組で飯尾さんが寝っころがって「あ〜あ、幕末に生まれてたらなあ。」ってひとりごちる一発ギャグ『現実逃避』なんて、まさにこれ。